所蔵作品
コレクションについて
山西義政が人生の折々の中で出会い、感銘を受けた絵画や彫刻、東洋陶磁の数々。
梅原龍三郎、熊谷守一をはじめとする洋画から、村上華岳、前田青邨などの日本画、佐藤忠良の彫刻など、ささやかなコレクションは次第に広がりと厚みを増し、1997(平成9)年に開館した泉美術館において順次公開しています。
「日常を離れ、心を憩め、新しい活力が生まれる空間」になることを願った美術館での収集は続き、対象は現代の美術へと及びました。
それらは、ズビニェク・セカルの彫刻、柚木沙弥郎の染色作品や絵本原画といった、多彩な作品群として実を結びます。
日本近代絵画
横山大観《神洲第一峰》
1954年頃
Taikan Yokoyama
1868-1958 (明治元-昭和33)
茨城に生まれる。本名秀麿。東京美術学校に1期生として入学し、 岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。1898(明治31)年、日本美術院の創設に参加。菱田春草らとともに、西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、「朦朧体」と称される没線描法の絵画を次々に発表する。1913(大正2)年には日本美術院を下村観山、木村武山等とともに再興した。1935(昭和10)年、帝国美術院会員。1937(同12)年、文化勲章の第1回受章者となる。
村上華岳《菩薩之図》(部分)
1928年頃
Kagaku Murakami
1888-1939(明治21-昭和14)
大阪に生まれる。本名は震一。京都市立美術工芸学校、次いで京都市立絵画専門学校にて学ぶ。1908(明治41)年、第2回文展に初入選。1918(大正7)年、小野竹喬らとともに国画創作協会を結成し、文展を離脱する。やがて喘息の発作を起こすようになり、兵庫県芦屋に転居し画壇を離れて制作に専念した。後に神戸に移り、釈迦や菩薩を題材とした仏画制作において、高い精神性を追求した。
前田青邨《日の丸鯉》
1956年 ©Y.MAEDA & JASPAR, Tokyo, 2022 E4938
Seison Maeda
1885-1977(明治18-昭和52)
岐阜に生まれる。本名廉造。梶田半古に師事し、紅児会にも参加。1912(大正3)年、再興された日本美術院の同人となり、以降院展を中心に活動。古典研究を礎とし、大和絵の伝統を深く学んで、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも数多くの優品を遺した。1944(昭和19)年、帝室技芸員。戦後は、法隆寺金堂壁画の再現や高松塚古墳壁画模写などの文化財保護にも尽力した。1955(昭和30)年、文化勲章受章。
安井曾太郎《柿と葡萄》
1950年
Sotaro Yasui
1888-1955(明治21-昭和30)
京都に生まれる。1903(明治36)年、京都市立商業学校を中退し、梅原龍三郎らとともに聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)で浅井忠に学ぶ。1907(同40)年、渡仏しアカデミー・ジュリアンに入学、ジャン・ポール・ローランスに師事。1912(同45)年頃よりセザンヌに傾倒する。1915(大正4)年、二科会会員に推挙。昭和に入り、堅牢な画面構成と計算された色面対比を特徴とする画風を確立する。1937(昭和12)年に帝国芸術院会員となる。1952(同27)年、文化勲章受章。
須田国太郎《双鷲》
1950年
Kunitaro Suda
1891-1961(明治24-昭和36)
京都に生まれる。青年期より独学で油絵を描き始める。1917(大正6)年、京都帝国大学にて美学・ 美術史を修め同大学院に進む。 翌年、関西美術院においてデッサンを学ぶ。1919(同8)年に渡欧し、スペイン美術やルネサンスのヴェネツィア派を研究。帰国後は1934(昭和9)年より、主に独立美術協会を拠点として、重厚で深く暗い色彩が特徴的な独自の画風を展開。1947(同22)年、日本芸術院会員。1960(同35)年、京都市立美術大学名誉教授。
熊谷守一《白猫》
1970年
Morikazu Kumagai
1880-1977(明治13-昭和52)
岐阜に生まれる。1904(明治37)年、東京美術学校にて黒田清輝らに学び、首席で卒業。1908(同41)年、第2回文展に初入選。1916(大正5)年に二科会の会員に推挙。1940(昭和15)年頃より、モチーフを極端なまでに単純化し、太い輪郭線と平面的な画面構成で表現する独特の画風を展開した。1947(同22)年、二紀会設立に参加。1967(同42)年には文化勲章受章の内示を受けるも辞退。
[ 主な作家 ]
- 横山大観
- 前田青邨
- 奥村土牛
- 村上華岳
- 福田平八郎
- 小野竹喬
- 徳岡神泉
- 杉山寧
- 東山魁夷
- 梅原龍三郎
- 安井曾太郎
- 熊谷守一
- 藤田嗣治
- 坂本繁二郎
- 須田国太郎
- 中川一政
- 小絲源太郎
- 香月泰男
- 山口薫 等